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『寝ながら学べる構造主義』を読んだ

2023/01/15

目次

概要

タイトルにある通り、まさに構造主義を寝ながら学べるような平易な入門書です。 平易といっても簡単に説明するために難しい部分を切り落しているということではありません。 まえがきにも書いてあるように「敷居が低い」という意味です。 難しい専門用語を知っている前提で話を進めたり、様々な解釈や定義がある専門用語に対してその定義はどうこうという議論をしたりすることはなく、構造主義の輪郭を著者の親しみやすい語り口と多くのたとえ話で掴んでいく本です。
構成としては始めに構造主義以前に登場し構造主義が出現する土壌になったマルクス、フロイト、ニーチェの思想を紹介しています。 ざっくりこれらをまとめてみます。 マルクスは主体が何ものであるかはその人が何を作り出したか (生産=労働) で事後的に知らされると言い (仮に「私」の本質が事前に決定していたとしてもそれは自身で直観することができない) 、普遍的人間性を否定しました。 この脱中心化という人間観の転換は 20 世紀の思想に共通して影響を及ぼしていて、構造主義の根本にあるものです。 フロイトは人間は個性豊かで自由に発想して考えているのではなく、その過程では「抑圧」のバイアスがかかっており、自分がどういうふうに思考しているかを知らないで思考していることを明らかにしました。 さらにニーチェは人間の思考は自由でないと言い、その時代の人々と大衆を批判し「超人」を見い出しました。
次に構造主義の祖と見られているソシュールを紹介し、その後、後世に与えた影響が大きい重要な構造主義者としてフーコー、バルト、レヴィ=ストロース、ラカンの思想がとりあげられています。
ソシュールはある観念が元からあってそれに名前を付ける (名称目録的言語観) のではなく、名前を付けることである観念が思考の中に存在するようになると考えました。 また「自分の心にある思い」は言葉を使って表現されるのではなく、言語を使ったことで得られた効果であるとも教えてくれます。
フーコーはあらゆる知の営みは情報をカタログ化し一覧的に位置付けようとする権力として機能していると批評し、バルトは記号学を展開し記号として文学、映画、アートなどを読み解きました。その中で「エクリチュール」を発見し、人間はエクリチュールに囚われており、覇権を握った一般的な語法ですら偏見を混じえていると注意を促しています。 レヴィ=ストロースはフィールドワークに裏付けられた結論によってサルトルを批判し、実存主義の時代を終わらせた人物であり、「親族の基本構造」を見つけて人間的感情や人間的論理に先だって社会構造がありその効果として感情や論理が構成されているということを考えました。 これはつまり人間の本質があるとしてもそれは自然な感情や普遍的な価値観ではなく、「人間は同じ状態であり続けることができない」と「私たちが欲するものは、まず他者に与えなければならない」という全ての社会集団で共通の二つのルールを受け容れたものだということです。 またラカンは人間は「鏡像段階」で「私」でないものを「私」として思い込むことと、エディプスにおいて自分の無力を「父」の干渉によるものと説明することで大人になると考えました。

感想

ほとんど前提知識なし (倫理の授業はうけたけどほぼ忘れた) で読み始めましたが、すらすら読み進められて面白い本でした。 この本を読んでものすごく人生が変わった (今後劇的に変わる) というようなことはないような気がしますが、少なくとも自分の思考のフレームワークが広くなったと思います。
奴隷が存在していた時代や他国が少しでも弱ったら侵略しに行く時代、安保闘争や学生運動が流行った時代などは「そういう時代」の空気があり、そこから進歩してきたことで現在があると思いがちでしたが、「そういう時代」はそれぞれ異なるイデオロギーや思想が支配的になることで形成されており、そこから進歩・進化しているのではなく社会で支配的なイデオロギーが変化しただけであると気づかされました。 また自分が「常識」だと思っていることは、普遍的で人類共通のものではなく、特定の時代・場所・社会集団・世代だけで共有されている偏見だという発想も重要で、自分の生きている時代や社会の常識は柔軟に受け容れて、自分が常識を語る時はそれが偏見であるという事実を忘れないようにしたいと思いました。

僕は自分のことをよく理解して自分の自由な発想と判断で決断して行動していると疑ったことはありませんでしが、マルクスやフロイト、ニーチェに言わせればそもそも自分が何ものであるかは生産のネットワークの中での行動を通じて事後的にしか知ることができないうえ、自分が意識化したがっていないことを意識化することができないということでした。 さらに人間の豊かな感情や論理が社会構造や言語やテクストを作って操っているのではなく、親族構造や言語、エクリチュール、労働のネットワークの効果として人間的な感情や論理が生まれているという脱人間主義的な考えは直感に反していて刺激的でおもしろいです。

理解できなかったこと

ニーチェの理解 (特に超人の理解が曖昧)とラカンの精神分析の話の理解が浅いと思います。
レヴィ=ストロースの親族の基本構造の一つの例は「兄弟の仲が良いと夫婦仲が悪い」というようなものだが、これはすんなり受け容れられずやっぱり本当にそうなのか?と疑問に思ってしまいます。


私がことばを語っているときにことばを語っているのは、厳密に言えば、「私」そのものではありません。それは、私が習得した言語規則であり、私が身につけた語彙であり、私が聞き慣れた言い回しであり、私がさきほど読んだ本の一部です。

『寝ながら学べる構造主義』 内田樹